梅雨ですね。
東京では気温も高く”じめじめ”した日が続いています。
こういう季節にはさっぱりとしたつまみでキンキンに冷えたビール!
が飲みたいです!
今日は簡単にさっとできてさっぱりと食べられる「とりわさ」を作りました。
普通にスーパーに売ってる鶏のササミを使います。(一応、加工日が当日になっているものを使うようにしていますが当たったことはありません)
【とりわさ】
■材料
- 鶏のササミ
★ネギ
★七味唐辛子
★わさび
★しょうが
■作り方
- ササミの筋を取り除きます。
- 沸騰させた多めのお湯にササミを投入!(水温が一気に下がらないように注意)2分ほど放置。
- お湯からあげて氷水で素早く冷やします。
- ササミを一口大に切って薬味を添えて完成。
《立って半畳寝て一畳、天下とっても二合半》という言葉について
最近久しぶりにこの言葉を目にする機会があり、自分の中で考えさせられるものがありました。
ちなみに【立って半畳寝て一畳、酒は飲んでも二合半】という言葉もあるが、これは上記をもとに造られた言葉だと思います。
一般的にちょうど良い酒量が二合半だったとしても酒飲みにとっては全く足りない量だというのは言うまでもないことです。
蛇足でしたが、この言葉は
人間が生きていくのは立っている時で半畳程のスペース、寝る時でも一畳あれば十分。そして仮に天下をとったとしても一食に食べられる限界はご飯二合半ぐらいでしょう。
ということを言っています。
つまり、足る事を知りなさいという訳です。
この言葉が真に刺さるのは僕みたいな普通の人間だろうなと思います。
世で成功してると言われている人達はこの言葉を屁とも思わないでしょう。
「そんなことを言っているから、思っているから成功出来ないんだ。満足な成果を出せないんだ」と
まぁそれはもっともかも知れないなと妄想を膨らませつつ
しかし、久しぶりにこの言葉に出会って僕は救われたような気がしました。
あれがほしい、これがほしい、もっと広い家に住みたい、焼肉が毎日食べたい、高級な寿司が食いたいetc…
普通に暮している中でも僕の欲望は尽きることを知りませんが、この言葉に照らして考えてみると
寝る家があって、生きていく上で食うに困ってなければ(酒も飲めてるし)それで十分じゃないかと思えてくるわけです。
十分現状でも幸せじゃなかろうかと
先程も書いたように、成功している人はこの言葉を読んだり聞いたりしても何とも思わないでしょう。
ましてや反省するなんてとんでもない。
そういった人にとって足る事を知るなんてむしろ恐ろしい話でしょう。
この言葉に救われるのは僕のように「ほしい物があるけど全て手に入れる事は叶わない人」「現状に満足できなくて踠き苦しんでいる人」「上手くいかない事の方が多く悩んでいる人」そんなような人なんじゃないかと思うのです。
では贅沢や欲望を求める事が悪なのか?というと自分は全くそうは思いません!(あばれる君風)
むしろ頑張る原動力になるし、時に明日を生きる希望になったりもするでしょう。
言うまでもなく、その人における贅沢は相対的なものではなく、絶対的なものです。
高級松坂牛ステーキが贅沢の人もいれば、スーパーのアメリカ産牛肉ステーキ(実際普通に旨いですし)が贅沢の人もいます。
少なくとも僕はアメリカ産牛肉ステーキ側の人間ですが、それでいいんです。
自分が感じる贅沢をしているという事実には変わりないし、羨んだり嫉妬したりしたところで何も変わる事はありません。
逆に他人と自分を比べることによって生まれるのは不快な気持ちだけ…
結局僕が何が言いたいかというと、
とりあえず今ちょうどビールが切れたのでビールをコンビニに買いにいってきます。梅雨時に飲むビールはとても美味しいです。
ということです。
僕にとっての贅沢はそれぐらいで十分なのです。
足る事を知り、その自分にとっての”足る”とは他人と比べるものではなく、自分の中にあるものだと思うのです。
たまには普段の競争社会から離れ、足る事を知り、現状の幸せを噛み締める時間を作るのもいいものではないでしょうか。
今日はそんな事を考えました。
では、また明日!
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